さまざまな活動内容をビジュアルに見ていただくためのページです。
◆青森県十和田市【11月9日】
≪十和田市現代美術館≫
十和田市は、青森県東南部に位置し今から150年前(江戸時代末期)に新渡戸傳翁らの先人により開拓の鍬が入れられました。街は碁盤の目状に区画されており「近代都市計画のルーツ」の地といわれています。
この開拓のまちづくりの理念が、街に新しい息吹を吹き込むという現代アートのまちづくりにつながっています。
(美術館の設計は西沢立衛氏です)
これが現代美術館です
◆青森県十和田市【11月9日】
≪フラワーホース前にて≫
十和田市現代美術館は、2008年4月に開館しました。このような不景気な時になぜ箱モノを作るのかという批判もありました。
しかし、市長が「より魅力的で美しい景観を作り出すとともに、未来に向けた新しい街づくりをしたい」というという確固たる信念を持って、市民の声を聞きながらていねいに説明をし理解を得たということです。
また、世界に通用するアートでなければ国内での集客もできないという考えのもとに、この美術館はつくられました。
入館者数は年間17~18万人を数えています。
フラワーホースの前で(奥の建物群が現代美術館です)
◆青森県十和田市【11月9日】
≪日本の道百選に選ばれています≫
美術館を中心に、官庁街通り沿いに35の作品が展示されています。
桜と松と季節の草花(マリーゴールドとサルビア)が約1㎞にわたって植え込まれていました。管理は、市が直轄で行っているとのことでした。
道路の両側には、
◎風がかおる花とみどりの市民の道
◎市民憲章で豊かな住みよい街づくり
という2本の広告塔が建っていました
素晴らしい景観の街並みでした
◆青森県十和田市【11月10日】
≪廃線になる十和田観光電鉄≫
青森県の三沢~十和田市間を結んでいます。
途中には、三本木農業高校や北里大学、十和田工業高校などがあります。
十和田市で赤字の補てんをしていましたが、赤字の幅が大きくなり限界に達したそうです。
廃線になった後は、バス輸送になるとのことでした。
来年3月で廃線になります
◆岩手県花巻市【11月10日】
≪花巻市起業化支援センター≫
花巻市は、北上川沿いに広がる平野で農業と観光のまちです。また、宮沢賢治生誕の地でもあります。人口は平成18年に合併し10万3千人になりました。
昭和40年代後半から工業団地の整備を進め現在84社が操業をしています。
起業化支援センターはベンチャー企業の支援のために作られたもので、岩手大学と連携して研究が進められており、起業化を支援しています。30~150坪のレンタル工場もあります。
起業化の支援について学びました
◆世界文化遺産に登録・平泉【11月11日】
≪中尊寺≫
中尊寺は、天台宗東北大本山で、850年慈覚大師円仁によって開かれました。
世界文化遺産に登録された平泉ー中尊寺は、紅葉も盛りで、多くの観光客でにぎわっていました。
中尊寺の紅葉は真っ盛りでした
◆世界文化遺産に登録・平泉【11月11日】
≪金色堂前にて≫
金色堂は天治元年(1124年)の造立で、中尊寺で現存する唯一の創建遺構です。堂全体を金箔で覆い、皆金色の極楽浄土を現世に表しています。
国宝建造物の第1号で、東日本随一の平安仏教美術と称されています。
金色堂前にて
◆世界文化遺産に登録・平泉【11月11日】
≪芭蕉翁句碑≫
中尊寺は、俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」で巡拝した寺の一つです。金色堂の裏手に芭蕉翁の句碑がありました。
「五月雨の 降り残してや 光堂」
金色堂の裏手にあります
◆世界文化遺産に登録・平泉【11月11日】
≪毛越寺(もうつうじ)芭蕉翁句碑≫
毛越寺にある芭蕉翁の句碑です。
元禄2年、高館を訪れた松尾芭蕉は、悲運の武将源義経公主従をしのび次の句を詠みました。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
芭蕉翁句碑の前で(堀江議員と)
◆世界文化遺産に登録・平泉【11月11日】
≪毛越寺伽藍復元図≫
毛越寺の池の周囲には、多くの伽藍が建っていました。火災等で焼失してしまいました。
「毛越寺伽藍復元図」
平泉発掘調査団長
東京大学名誉教授 藤島亥治郎博士考証
光風会員 白石隆一画伯 油絵
「その荘厳なること、本朝無双なり」と詠われました。
往時は沢山の伽藍がありました
◆世界文化遺産に登録・平泉【11月11日】
≪毛越寺庭園≫
産業建設常任委員会のメンバーとともに記念撮影をしました。
毛越寺はモウツウジと読みます。
越は通常ツウとは読みません。
慣用音でオツと読みます。
したがって、モウオツジがモウツジになり、
さらにモウツウジに変化したということです。
毛越寺庭園をバックに
◆平泉文化遺産センター【11月11日】
≪館内の様子≫
「みちのくの中央平泉」
平泉はみちのくの中央にあり、南北の境界(衣河関)。水陸交通(北上川と奥大道)の要所でもある。「吾妻鏡」によれば、藤原清衡はみちのくの北から南まで卒塔婆を建て並べ、この地が中心であることを誰でもわかるようにした。と記されています。
平泉は12世紀日本の北方領域における政治・行政上の拠点でした。
また、平泉は義経伝説の舞台でもあります。遠くみちのくの地に思いを馳せた静御前が脳裏に浮かびました。
みちのくの中央・平泉